僧侶が語る“私のための法事”

【第一回目】 僧侶の考える「私のための法事」とは?


仏事普及協会では、実際のご法事に参加していただいている有志僧侶が
定期的に集い「私のための法事」について語り合いを行っています。

司会者:本日は、仏事普及協会の趣旨に賛同し、「私のための法事」の開発、実際のご法事に参加いただいている僧侶の皆さんと、ざっくばらんに話をしながら、「私のための法事」の内容をさらに磨いていければと思います。よろしくお願いいたします。

一同:よろしくお願いいたします。


“良い法事”とはどのような
場や機会だと思いますか?

井上:「亡き人を案ずる私が、亡き人から案ぜられている」と言いますが、実はご法事を通して、亡き人からご法事を行う側が仏教を教えられていると感じています。ご法事は、亡き人を通して大切なことを教えられ、受け取る場ではないかと思っています。

司会者:なるほど。法事は亡くなった方のために行う印象がありますが、参加する我々が頂く時間でもあるんですね。

山岡:実はそうなんです。仏教は死んだらどうなるのか、これからどう生きればいいのかという指針を示します。指針が示されることで、人生を歩んでいけるのではないでしょうか。亡くなった人と会えなくて寂しい、人生が思い通りにならない、、、などの環境は変えられませんが、大きな心境の変化が与えられることがご法事の特徴ではないですかね。

加藤:法事に来る時には、どうぞお土産を持ってきて、そしてお土産を持って帰ってくださいとお伝えしています。お土産は何かといえば、自分が抱えている課題です。この課題を亡き人と向き合い相談すれば、亡き人は応えてくれるでしょう。そして課題を持ち帰ってくださいと伝えています。ご法事を終えた後に気づくこともあります。ご法事が終わってから、あっそういうことか、と気づくこともあります。気付きの促しをするのが僧侶の役目なのではないですかね。そしてご法事とは、故人さまから当たり前にしている日頃の自分を問い直す大切な機会だと思いますよ。

目崎:私は、法事の際には最初に本堂でご本尊に合掌し、お経はお釈迦さまの大切な教えで、親先祖が大切に伝えてきたくれたものであること、そして大きな安心感や拠り所があることを伝えています。法要の最後には、法要で気づいたことを大切に今までいた日々の生活に(新たな視点をもって)戻ってほしい。そして次の法要には新たな課題を抱えて戻ってきて欲しいと願っています。ご法事は大きな安心感を確かめる場所だと思うのです。

司会者:ありがとうございます。安心感や気付きという意味ではカウンセリングの時間みたいですね。

大空:通常、カウンセリングは徹底して相手の言葉に寄り添うことを目的としています。しかし、私たちは僧侶ですので、お経を通して真の宗という指針、方針を示すことが役割だと考えます。仏教に基づき自分が大切だと感じるご法話をさせていただきます。自信教人信(自分が信じたことが人にも伝わるの意味)を尽くすこと。ご法事は指針や方針を伝えて、ご自身で気付きを与えるよう促すことが大切だと考えてるんです。

黒澤:実は先日 、四十九日のご法事がありました。お連れ合いを喪った奥様は、寂しいと繰り返しておりました。心筋梗塞を起こされて、お別れもできないままの別れでした。カウンセリングであれば、これ以上は言えないのです。しかし仏教では諸行無常という仏さまの教えがあり、そういうあなたも、かくいう私も、いのちを授かった ものは平等に必ず死んでいかねばならない旅の途上であること、そして必ず浄土に往生して再開できるので心配しないで、来年の一周忌まで頑張っていきましょうねと伝えたんです。ご法事では、相手に寄り添うだけではなく、方向を定めて歩ませることが目的だと感じます。


仏様や仏教の教えは
何となく
難しいという
イメージがあるのですが…

山岡:仏教では、亡くなった方を死者とは呼ばず、仏さまとして拝みます。合掌礼拝することで、故人の言葉や想い出が、今までとは違って聞こえてくる時があるんです。それが仏さまに遇うということではないかと思っています。亡くなった人を死者ではなく、私を目覚めさせる仏さまとして出遇い直すという意味です。ご法事とは、亡き人を仏さまとして出遇い直す意味があると思います。なので実は難しいことではないんです。

司会者:そう考えると、何百年も昔から法要を行ってきたのは、故人様を通して自分の生き方を見つめ直す意味あるものだったからかもしれませんね。
それでも最近は、法事をしない人が増えていると聞きますが、それは何故でしょうか。

井上:法事をやらない人の最大の理由は、法事に期待していないからではないでしょうか。過去に法事をした結果、これならしないでも良いと感じている人が多いんです。どの法事もそれなりに意味がある、とかではなくて、親先祖が伝えてきた法事を水準にしたいんです。今この座談でよいものを出していかないと変わらないんです。この会を通して自分たちも法事とは何ぞやと見つめ直したいです。

樋口:法事をしないのは、法事をした(結果、意義を感じない) からだと言う意見がありますけど、本当にその通りだなと思っています。ユーザー目線じゃないけど、法事に来た人が本当に良かったって思えるのかどうか。この法事を受けて明日から生き方が変わるのかっていうところは自分の中でも課題なんです。自己紹介にしろ、法語の冊子にしろ、自身の生き方や価値観、生まれた意義を見出せるかは本当に課題。自分はどうなんだと考え、この機会を通して追及していきたいと思っています。

溝邊:お坊さんの中にも、お坊さんという立ち位置が先行してしまってなんかやらなきゃいけない、答えなきゃいけない、こうしなきゃいけないというのが凝り固まっているのかな。第一に、自分一人っていうのが大事なんだとすごく感じますよ。

井上:参詣者にとって本当に参加してよかったと思える法事になっているのかというのが課題ですよね。私は日頃の法事では、時間に追われて、ほぼほぼ忘れています。だからこそ、「私のための法事」を通して、意義ある法事をおこなっていきたいと思います。 先日、金沢で開催された研修に、ここにいる悠山さんと一誓さんと行かせていただきましたが、「宗教的信が内に展開する願」という言葉が心にのこっています。私たちにとって信じることは、思い込むことではなくて、深く受けとめることだなと。願いが背景にない信は弱いと思います。頑張ります、命がけで信じます、みたいな。そうではなくて、願いを受けて今感じることには力みや無理がありません。ご法事も同様に故人からの願いを受けたときに、現在の感想として出てくるのだと思います。


人生の宿題をもらい、
それを解いく過程で
よりよい人生に近づいていく

小原:金沢の研修にも触れてお話しすると、「なんで来たの」と聞かれた。「いわれたから来たの?違うでしょ。それじゃ自分の意思で来たいから来たの?それだったらこんなところまで来ないでしょ。ただならぬ因縁があるんじゃないでしょうか。」と聞きました。その言葉を受けて、改めて自分自身また来年あったら行きたいなとか、続けて来れたのはよかったなと思えるんですよね。それはこのご法事にもつながるんじゃないかなと思う。
ご法事に参加したことも、自分の思いを超えた部分があるんじゃないでしょうか。飾っていないありのままの自分、自分の課題や問題の部分ってあまり聞きたくないし、暗い気持ちになるからあえて見たくない気持ちになりますよね。僧侶が自己紹介で、自分の課題を話すことで、このお坊さん本気なんだなとか、私と一緒なんだなとか、そういったところに触れて、このお坊さんに会いたいな、法事っていいなにつながっていくのかと思うんですよ。飾った言葉で話すのではなくて、自分の課題に向き合うところ。その課題を大事にするということとかね。その部分を突き詰めていくほうが良いと話を聞いて思いました。

井上:法事を通して課題を見出す。本音の言葉は響きますよね。例えば戸取さん、家庭に問題はありませんか。

戸取:問題たくさんです。

井上:有難うございます。そうですよね。これで何も問題がありませんとなったら、実は問題が見えていないだけという場合が多いのではないでしょうか。うちはケンカしないって聞いたら、いいようでいて問題があるかもしれません。お互いに関心すらなくなっているという恐れもありますよね。極端かもしれないけれど、課題が見えていないということは、課題に気づいていないという場合があるのではないでしょうか。我々の目指す法要として、人生の宿題をいただく場を目指すことは大切ではないでしょうか。

小原:そうですね。そう思います。

司会者:ありがとうございます。目指すべき法事は、故人様を縁に集まった我々が人生の宿題をもらい、それを解いく過程でよりよい人生に近づいていくものなのかもしれないですね。今日はお時間になってしまったので、また次回、それを叶えるための手段について話し合いができればと思います。改めて本日はありがとうございました。

一同:ありがとうございました。

※次回配信、【第2回目】「僧侶が考える法話の心得」は、
12月18日(金)を予定しております。

座談参加の
僧侶のみなさん

溝邊 貴彦 僧侶

「愚者になりて往生す」(法然上人)山形生まれ、山形育ち。会社員を経て、僧侶への道を歩んでいます。趣味はロングボード

神島 一誓 僧侶

「「慙」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。」(涅槃経) 栃木県生まれ。仏道と東京の道に迷いながら、真宗を道標に人生を学んでおります。

松田 大空 僧侶

「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」(親鸞聖人)。北九州小倉生まれ。本当の生き方を求めて僧侶の道を歩んでいます。

山岡 恵悟 僧侶

「経教はこれを喩うるに鏡のごとし」(善導大師)。愛知県岡崎市出身。森林公園昭和浄苑浄苑長。賜った仏縁に感謝しながら日々を送っています。

井上 城治 僧侶

「善人は暗い、悪人は明るい」 ( 曽我量深 )。東京都生まれ。趣味はカフェ巡り、韓国ドラマ。四児の父。

目﨑 明弘 僧侶

「悲しみが 人間を豊かにする」(梶原敬一)。神奈川県伊勢原市出身。18歳で京都に進学し、17年間京都で過ごし、現在は埼玉県在住。3児の父。

樋口 史門 僧侶

「根を養えば 樹は自ら育つ」(東井義雄)。京都生まれ、京都育ち。会社員を経て、僧侶への道を歩んでいます。趣味は旅行と映画鑑賞

加藤 一美 僧侶

「平生に臨終すんで、葬式すんで、なむあみだぶつの中におる」(浅原才市)。東京都生まれ。京都大谷専修学院卒業。仏教人生大学並びに船橋昭和浄苑に於いて聞法会を担当しております。ぜひご聴講ください。

工藤 和潤 僧侶

「一人居て喜ばは 二人と思うべし 二人居て喜ばは 三人と思うべし その一人は親鸞なり」(親鸞聖人)。神奈川県横浜市出身、学生時代は合唱をしていました。猫愛好家です

小原 悠 僧侶

「赤き色には赤き光、白き色には白き光あり。」(仏説阿弥陀経)。埼玉県上尾市出身。前職は作業療法士です。出遇いの縁を大切にお勤めに励んでおります。

黒澤 秀幸 僧侶

「そらごとたわごと」(親鸞聖人) 学生時代から40代まで骨折回数15回、その度に大変皆様にご迷惑をお掛けいたしました。